9月4日のNHK Eテレの知恵泉御覧になった方には退屈な内容かもしれませんが、北条早雲より始まる後北条氏は戦国の世の下克上を体現した一家と言えるでしょう。
約100年で関八州(現在の関東平野)の覇者に登りつめ、豊臣秀吉に滅ぼされた戦国大名家。
その礎を築いたのが二代目の氏綱であり、関東に北条ありと知らしめ繁栄を築いたのが三代目の氏康でした。
■臆病者で家臣からもバカにされていた跡取りの氏康
氏康は、鉄砲の音にびびり、腰を抜かすほどのビビり屋で、家臣からバカにされ、北条の行く末を案じられました。
そこで、父の氏綱は、臆病者=慎重な人間と捉え、当時の主君には珍しい算術教育を施しました。
根が慎重な氏康は算術を身に着けることで合理的かつ論理的に考えるという力を備えました。
そして、いわゆる川越夜戦という奇襲攻撃によって関東の覇者となったのです。
■無用のものなど一人もいない
主君の器として疑問視された氏康に対し、氏綱は「無用なものなど一人もいない」という考えのもと、彼に最適な教育方法で、彼の長所を伸ばして活躍させることに成功しました。
これは、奇しくも、ライバルの武田信玄の部下育成術にも通じます。
武田信玄は「渋柿は渋柿として使え」という適材適所論を説きました。
織田信長もそうですよね。
農民出身で脱げ位の心得のない秀吉のために二人の天才軍師を彼のもとに置きました。
そう、竹中半兵衛と黒田官兵衛です、
たの有力家臣は武家ですから戦闘能力がそもそも高いのです。
■会社の両輪は利益の追求と人材育成
戦国大名の例を出すまでもなく、企業が追求しなけれならないのは、“利益の追求”と“人材育成”です。
氏康が関東の覇者になれたのは、農民への税負担を軽くし、彼らのやる気をアップさせたからです。
税負担を軽くしたことで各地から人が集まり、かえって税収が増えたのでした。
同じ事は信長公の楽市楽座にも言えますね。
活況な組織には自ずと優秀な人間が集まり、より強大になるものです。
そのためにも“人への投資”を手抜かりなく行いたいものですね。
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