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中小企業経営者は「真田信之」を目指せ!

■、名君とたたえられ、松代真田藩240年の礎を築き、4人の徳川将軍に仕え、外様でありながら、家老職に二度就ける家柄にした開祖 真田信之。

真田家というと、二度の上田合戦を指揮した父の真田昌幸や日の本一の兵で知られる弟の真田信繁=真田幸村にスポットが当たりがちですが、彼らが褒められるとしたら、それは乱世の場合のみです。

むしろ中小企業の経営者に求められるのは真田信之が本領を発揮した藩と領内の経営能力です。

■我欲や感情に流されることなく冷静に状況を分析判断して決断を下し、逆境を逆手にとって長所に変えて第4代将軍からは“藩主の鑑”とまで言われるまでになった真田信之。

信之が関ヶ原の合戦で東軍についたのは、信之自身の意思だと記録に残っています。徳川家康の命で会津討伐に行く以上は家康公に忠義を尽くすのが本筋と考えたからです。

その後に、西軍についた昌幸・信繁親子は九度山に追放されますが、関ヶ原の後に徳川に100家ほどの大名家が取り潰される様を見て、無理に父と弟の赦免を求めたら自分も潰されると思い、徳川への恭順姿勢を示すのです。

度重なる戦乱で荒れ果てた上田の地は降水量も少なく、干ばつが度々起こり農地は荒れ果てます。状況は沼田も同じ。

ですから、ため池を整備して、農民への普請負担を軽減したり、時には経済的に困窮して身売りする農民を自ら買い戻したりして領地経営を安定復活させました。

■上田から松代への移封は嫌がらせではなく徳川幕府からの信頼の証。

通説では松代への領地移動は徳川からの嫌がらせと伝えられていますが、実は逆です。

理由は主に2点あります。

・上田藩時代より35,000石の加増がなされていること。

・松代の地は越後と北陸の通過点に当たる交通の要衝の地(北陸には最大の外様大名の前田家がいる)であり、信之以前は徳川の譜代大名や親藩が収めていたこと。

そんな重要地に外様大名を置くということは2代将軍の秀忠が譜代大名並みに信頼していた証である。

ちなみに真田信之は93歳まで生き、戦国を知らない家光や家綱は、伊達政宗同様に戦国時代の話を聞かせてくれとせがまれていたことも有名。

たかだか10万石、もとをただせば、長野県上田地方の豪族に過ぎなかった真田家が今に至るまで続いているのは、名君 真田信之の現実主義的な“経営手腕”に他ならない。

信之の死に関しては、領民までがこぞって葬儀に参列し、殉ずるために出家した者も多かったと言われている。

経営者には大局を見据えたリーダーシップが必要ですが、同時に現実世界で生き抜くというマネジメント力も必要です。

ぜひ、信州の誇り真田信之から学んでいただきたく存じます。