
■最大石高と自前兵力から見る織田信長の凄さ
比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆弾圧で冷酷非情なイメージが強い織田信長ですが、時代背景からしたらした特別酷いわけではありません。
それを言ったら、カエサルも始皇帝もナポレオンも三国志の英雄も極悪人です。
先ずは主要戦国大名の最大石高と動員兵力を見てみましょう。
- 織田信長…700万石で21万人
- 徳川家康…400万石で12万人
- 北条氏政…250万石で7万5千人(氏康のころだと150万石で4万5千人)
- 島津義久…150万石で4万5千人)
- 上杉謙信…145万石で4万3500人
- 武田信玄…130万石で3万9千人
- 毛利元就…130万石で3万9千人
- 伊達政宗…1114万石で3万4200人
- 長曾我部元親…76万石で2万2800人
なお、豊臣秀吉の石高は約250万石、今川義元は約100万石とされています。つまり、天下を狙うには100万石が一つの目安といえますね。
また彼らには異名がありました。
・伊達政宗…独眼竜・伊達者
・北条氏康…相模の獅子
・武田信玄…甲斐の虎・足長坊主
・上杉謙信…越後の龍・軍神
・徳川家康…東海一の弓取り・狸
・織田信長…第六天魔王・うつけ
・毛利元就…謀神
・長曾我部元親…土佐の出来人
・島津義久…?
因みに秀吉は一般的には猿と言われますが、信長はハリネズミと呼んでいたのが資料に残っていますよね。
信長の第六天魔王とは、仏教のの第六天=地獄の王という意味で、武田信玄が比叡山延暦寺を焼き討ちした信長に皮肉を込めて使った表現で、この時に信玄は天台座主(比叡山のトップ)を自称しているんですよ。
信長は本当に非情で冷酷な大名だったのか?
■中国古典を駆使して善政を行い町人や庶民からは歓迎されていた信長
信長が活躍したのは乱世の戦国時代、食うか食われるかの時代ですから敵対勢力を後顧の憂いなく根絶やしにすることは別に非情ではないでしょう。
信長の戦法や政治姿勢は中国古典を忠実に行いつつ、君主論の影響も受けていたのでは?と思うような行動が多いです。
でなければあんなに優秀な家臣団が付き従うとは思えません。
外様から筆頭格に出世した明智光秀など有能なものは出自に関係なく抜擢するという姿勢は典型例です。
また、信長の通り道で鼾をかきながら昼寝をしている農民を見て家臣が農民を切り捨てようとした時は、農民が昼間から安心して昼寝できるということはそれだけ治安の良い証なのだから免じてやれ、むしろ儂の理想だと言ったくらいです。
また、いち早く貨幣経済社会の到来を予測し、楽市楽座という誰でも商売ができる制度をつくったり、海外貿易に目を向けたり、安土城をライトアップ演出したりして庶民に慕われていました。
家臣団は方面軍制度を用いて、各方面軍団長に総督的な裁量権を持たせていました。
・関東・東国方面軍…滝川一益
・北陸方面軍…柴田勝家
・畿内・山陰方面軍…明智光秀
・山陽方面軍…羽柴秀吉
・四国方面軍…丹羽長秀
この中でも明智光秀は畿内(安土城周辺や京都)を任されていますからいかに重用されていたかが分かります。
噂にある、家康の宴の段取り云々での叱責程度の遺恨で本能寺の変を起こすとは考え難いです。
何故なら光秀は当時で40~50万石を与えられているわけですから、信長の配下にいながら有力大名クラスの石高ですよ。
徳川四天王の筆頭格の井伊直正でも25万石ですから裏切る要素が本当に不明瞭としか言えません。
個人的には信長の肖像画等を天下統一後に改ざんした秀吉が怪しいと最近は思っています。
秀吉が源氏の流れをくむ光秀を唆し、その光秀をも謀ったのではないかと。
でなければ中国大返しが上手くいきすぎだなと。
秀吉の誤算は家康の抵抗ではないかと。
家康からしたら織田の家臣が天下人など到底認められなかったでしょうし、その家康を警戒したからこそ小田原征討後に関東へ鞍替えさせた。
しかし、関八州だけで250万石を誇る国力ですから家康は面従腹背の気持ちで豊臣がこけるのを待っていたのでしょう。
何故なら、秀吉と他の織田家の重臣とは家格が違い過ぎますし、織田にはまだ直系子孫が居ましたから筋が違うと思ったのではないでしょうか。
歴史にifはありませんが、資料から #織田信長 の功績は学ぶべき点が多いと思っています。特に現代の #閉塞 し #硬直 した日本の各システムを #イノベーション するには参考になると思いますよ。
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beck (月曜日, 26 10月 2020 14:22)
伊達政宗…1114万石?