· 

魔王なら良臣に恵まれない

■織田信長に第六天魔王のあだ名をつけたのは武田信玄。

ゲームや各種創作物のイメージ操作で今川義元が公家かぶれの蹴鞠麻呂野郎になったのと同じく、織田信長にも魔王や破壊者のイメージが付きまとう。

しかし、信長一代記の「信長公記」の作者なんかは、本能寺の変で信長が横死したときには人目も憚らずに泣いて、嘆き悲しんでいるのである。

「第六天魔王」とあだ名をつけたのは、当時の敵対勢力であり、既に仏門に入っていた武田信玄が、比叡山延暦寺の焼き討ちを揶揄してつけたものであり、後世にその部分が強調されてしまった。

比叡山延暦寺の焼き討ちの実働部隊は明智光秀である。

彼は外様家臣でありながら、信長には忠実に従って武功も立て、領国経営も上手くやっていた。

家臣になったのは遅いが、古参の柴田勝家や前田利家、滝川一益や丹羽長秀よりも出世して織田家臣団筆頭の45万石の大名に取り立てられたのである。

45万石といえば、徳川御三家の紀州や尾張と遜色ないクラスである。

いかに信長に重用されていたかは分かるであろう。

信長は既存の価値観に縛られずにヒト・モノ・カネを考えて実行していた。

それが既存勢力からは疎まれた点でもあるが。

先ずは“権威の否定”である。

当人には征夷大将軍になるつもりは毛頭なかった。

むしろ、将軍や天皇を超越した存在を目指した(皇帝とか)と言われ、その大きすぎる野心を光秀が危惧して討ったともいわれる。

次に否定したのは“腕力”である。

信長自身も相撲を好み、武芸に秀で、乗馬の技術もすごかったと言われるが、桶狭間の戦いの論功行賞でも明らかなように最も評価したのは、義元の首を取った者ではなく、敵情を逐一正確に知らせた諜報部員であった。

つまり、武士は腕力のみならずを世に知らしめたのである。

次なる改革は、お金と経済の重視。

楽市楽座は有名でしょう。

納税をする代わりに誰でも商売していいよと国を解放したことで、津々浦々から人や物が城下に集まり、交易が盛んになる。

交易が盛んになると国は豊かになる。

国が豊かになれば農民から多くの年貢を取り立てる必要が無いので農民の生活も楽になり、耕作放棄地が減り、農地も荒れない。

農地が荒れなければ里山は豊かだし、治安もいいという理由で岐阜も安土も栄えたのである。

安土城が建造された当時は安土城は、フランスのモンサンミッシェルが如く湖上に浮かぶような感じで立っていたとされる。

つまり、琵琶湖を眼下に見下ろして、京都盆地や濃尾平野、北陸が見えたのである。

また、信長は拝観料を取って自らが案内役として庶民を安土城に案内していたことも分かっている。

拝観料は現在価値で概ね1,000円位ともいわれているが、現実に登場するとなればプラスαで何かしらの献上物は持っていくよね。

とまあ、私の織田信長愛は尽きることがなく、書き始めたら終わらなくなってしまうので今日はこのあたりで断筆します。

#織田信長 ファンであることを差し引いても私の彼に対する #改革者 としての評価は揺るがない。 #織田四天王 をはじめとする数多の #良将 が彼に付き従った事実は色褪せないのである。